ウェルビーイングに対する遺伝的影響は?
わたしたちの脳が、どのようにして幸福感を感じるのかといったことを調べていくと「セロトニン」というワードにたどり着くかと思います。セロトニンは「幸せホルモン」と呼ばれることもある、脳の中での情報伝達に関わる神経伝達物質の一種です。
今回の記事では、このセロトニンに関連する遺伝子とウェルビーイングの関係について調査した論文の内容をご紹介していきます。
“幸せホルモン”セロトニンとは?
生物の神経細胞のことを「ニューロン」と呼び、ニューロンが多数結合して大規模なネットワークが構成されている状態を「ニューラルネットワーク」と呼びます。ニューラルネットワーク内での情報伝達が起こることにより、様々な生体反応が生じる、というのが私たちの脳の働きです。
その情報伝達を担うのが「神経伝達物質」です。神経伝達物質にはおよそ20種類があると考えられており、そのなかでもセロトニンは体温調整や睡眠などの生物にとって基本的な機能に加え、感情のコントロールとの関係があるとされ、比較的研究が進んでいます。。
そんなセロトニンに関わる遺伝子の研究で、セロトニンが作動する経路のいずれかに関連するようないつかの遺伝子が発見されています。例えば、「セロトニンの生合成を促す酵素の活性に関連する遺伝子」や、「セロトニンの受容体の発現に関連する遺伝子」、「セロトニンの濃度を調整するトランスポーターの発現を調整する遺伝子」などが挙げられます。単一の遺伝子がセロトニンを制御しているわけではない、ということが分かります。
さらに、セロトニンに関わる遺伝子は、年齢・性別といった個人の特徴や人生経験によっても調整されることが知られています。
例えば、先ほどご紹介した「セロトニンの濃度を調整するトランスポーターの発現を調整する遺伝子」は、住宅や家族生活の満足度など、生活満足度のなかの特定の要素に関連しており、若年期のストレスによって調整されます。
少し分かりにくいので具体的に説明します。「セロトニンの濃度を調整するトランスポーターの発現を調整する遺伝子」は「若者や高齢者の生活満足度の低下」に関連があります。しかし、「セロトニンの濃度を調整するトランスポーターの発現を調整する遺伝子」の評価だけでは説明できず、「若年期にストレスを受ける」という経験の有無により、生活満足度の低下の度合いの説明ができるのです。
ウェルビーイングに対する遺伝的影響の評価
前述のとおり、ウェルビーイングに関連すると考えられているセロトニンについて、単一の遺伝子だけでは説明することはできません。そこで今回ご紹介する研究では、ウェルビーイングとの関係を評価するにあたり、セロトニンに関連する単一の遺伝子だけではなく、複数の遺伝子による累積的な効果についても分析を行っています。
調査対象者は中国人大学生994人で、3~5個の毛包細胞(毛髪に含まれる細胞)を採取し、そこからDNAを抽出しました。DNAはPCR法を用いて増幅させ、遺伝子の分析を行いました。分析対象とした遺伝子は7種類です。
ウェルビーイングについては、複数の心理尺度の測定を行いました。それらの測定結果について統計的に処理を行い、関係性を評価しました。
分析の対象
セロトニンの生合成を促す酵素の活性に関連する遺伝子A/B
ウェルビーイングに関する心理尺度
ポジティブ・ネガティブ感情(感情バランス)
生活満足度
心理的幸福感
主観的幸福感(20~25人のグループごとに評価)
※遺伝子について、実際に測定されたのは「rs4570625」「rs7305115」「rs6295」「rs6311」「rs6313」「5-HTTLPR」「5-HTTVNTR」ですが、便宜上、このような表記としています。
※ウェルビーイングに関する心理尺度は、いずれも中国語版が用いられました。
遺伝子の累積的な効果がウェルビーイングに影響する
分析結果について、「単一の遺伝子による効果」と「累積的な遺伝子による効果」それぞれご紹介していきます。
単一の遺伝子による効果
先行研究においては、対象となった遺伝子が単一でセロトニンと関係がある、すなわち幸福感と関係があることが示されていましたが、この実験ではそのような関係が見られませんでした。生活満足度について、「セロトニンの生合成を促す酵素の活性に関連する遺伝子A」および「セロトニンの受容体の発現に関連する遺伝子C」との有意な関係が見られましたが、統計上の補正を加えると有意ではなくなり、弱い関係しか見られませんでした。
要因として、先行研究に比べるとサンプル数が多く、遺伝的な要因や他の遺伝子の影響があり、単一の遺伝子の効果を検出できなかったことが考えられます。つまり、単一の遺伝子の効果を検出することで“個人の”ウェルビーイングの程度を説明するのは、最適なアプローチであるとは言えないでしょう。
累積的な遺伝子による効果
対象となった遺伝子について累積値を計算した「累積遺伝スコア」について、感情バランス、生活満足度、心理的幸福感、主観的幸福感それぞれと、統計的に有意な関係性が見られました。つまり、セロトニンに関連する遺伝子の累積遺伝スコアが高いほど、より感情のバランスが良く、生活満足度が高く、心理的幸福感や主観的幸福感が高いということです。
分析の対象となった遺伝子のうち、「セロトニンの受容体の発現に関連する遺伝子A」およびセロトニンの濃度を調整するトランスポーターの発現を調整する遺伝子ロトニンの濃度を調整するトランスポーターの発現を調整する遺伝子B」は、感情調整に関連するということが先行研究にて示されていました。今回の研究ではより具体的に、ポジティブ・ネガティブ感情が、累積的な遺伝子による影響を受けているということが示唆されたのです。
さらに、生活満足度や心理的幸福感、主観的幸福感との関連については、認知的な柔軟性や外向性、楽観性といった個人の傾向に対し、累積的な遺伝子による影響があるということが示唆されたということになります。
こういった結果が見られたのは、ウェルビーイングや幸福に関わる遺伝子が複数存在し、それらの相乗効果を累積遺伝スコアにより評価することができたためであると考えられます。
おわりに
今回ご紹介した研究では、幸せホルモンとも呼ばれるセロトニンに関連する遺伝子について測定を行い、ウェルビーイングに関連する尺度と比較することで、幸福と遺伝子の関係を調査しました。
この研究で分析された遺伝子の中には、世代が異なると遺伝子頻度や遺伝型頻度が異なるといったものも含まれており、中国人大学生のみを対象としていることが、結果に偏りを生じさせている可能性もあります。また、以前の記事でもご紹介しているように、西洋で開発された心理尺度が、東洋的な幸福感をきちんと測定できていない可能性もあります。
こういった懸念点はあるものの、遺伝子によるウェルビーイングへのアプローチとして、単一よりは累積的な遺伝子により検討する方が適しているであろうということが示されました。
こういった研究がより進んでいけば、将来的には遺伝子レベルで個人のウェルビーイングについて検討できる可能性もあります。しかし、本文中でもご紹介した通り、遺伝子は人生経験にも左右されるといったことがすでに分かっています。ですから、「ストレスの少ない環境に身を置く」などといった、自分にとってよりよい環境で過ごすことをまずは大切にしてみると良いかもしれません。
参考文献
Fan, Y., Yang, Y., Shi, L., Zhao, W., Kong, F., & Gong, P. (2023). Genetic architecture of well-being: cumulative effect of serotonergic polymorphisms. Social cognitive and affective neuroscience, 18(1), nsad039. https://doi.org/10.1093/scan/nsad039