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呼吸の科学 - 呼吸が感覚・認知・感情に与える影響

呼吸は、私たちの生命を維持するために欠かせない活動の一つです。酸素の取り入れと二酸化炭素の排出の機能を超えて、心臓活動や血圧など、他の自律神経活動とも密接に関連します。さらに、呼吸はこのような生理学的な機能だけでなく、感覚や認知、情動などにも深く影響を及ぼしていることが明らかにされつつあります。

通常の場合、呼吸は無意識に行われますが、呼吸の速さ・深さなどは意識的にコントロールすることが可能です。心拍数や血圧、体温などを意識的に制御することは非常に困難ですが、呼吸の場合は容易であることから自律神経系を調節する手法としても活用されます。呼吸は、感情の調節やマインドフルネスなどとも関連するため、ウェルビーイングの側面でも注目されています。

本記事では、学術的な知見をベースに、呼吸が私たちの感覚や認知、情動などとどのように関係するかご紹介します。


呼吸と感覚

呼吸は、感覚処理と密接に関連しており、特に嗅覚を介した影響が注目されています。鼻呼吸における吸気フェーズには、嗅球皮質 *1、あるいは扁桃体 *2 や海馬 *3 などの大脳辺縁系の活動が増加することが報告されています(Zelano et al., 2016)。一方、鼻での呼吸から口での呼吸に切り替えると、この影響は小さくなります。

*1 嗅覚における中心的役割を果たす脳の領域。嗅神経から送られてきた信号から匂いを検出・識別する。
*2 恐怖や不安、怒りなどの負の感情の処理を行う脳の領域。
*3 記憶に関する脳の領域で、短期記憶を長期記憶に変換する過程で機能する。

吸気時の感覚強化は視覚反応にも影響することが報告されており、真顔の顔写真と恐怖表情の顔写真を判別するテストでは、鼻から息を吸っている時に画像を提示すると、鼻から息を吐いている時よりも正しく恐怖表情を選ぶ割合が高くなることが示されました(Mizuhara & Nittono, 2023)。

これらの研究から、呼吸における呼気時よりも吸気時の方が、外界情報の知覚が鋭くなると考えられます。嗅覚は、五感のなかで系統発生学的に古い神経系であり、他の感覚領域と異なり視床を介さず直接大脳皮質に神経を供給していることが関連していると考えられます(Allen, et al., 2023; Insausti et al., 2002; Nigri et al., 2013; Potter & Nauta, 1979)。

また、呼吸は痛覚の処理にも影響を及ぼします。深くゆっくりとした呼吸を意識的に行うことで、交感神経による緊張を緩和し、痛みの知覚を軽減する効果があることが報告されています(Busch et al., 2012; Jafari et al., 2020)。特に、息を吸うことよりも息を吐く時間を長くすることで、痛みが最も軽減されることが示されました。

呼吸と認知

呼吸は注意力や記憶力といった認知機能にも影響を与えます。

瞑想やマインドフルネスで行われる呼吸への集中は、頭頂葉 *4 および前頭前野 *5 の構造を含む注意ネットワークの活性化と関連し、注意力の向上につながることが示唆されています(Dickenson et al., 2013)。また、ヨガの実践に着目した研究では、ヨガ中に呼吸に集中することは、持続的な注意力と関連することが報告されています(Schmalzl et al., 2018)。

*4 多くの感覚機能の中枢が集まり、外界の認識に関わる脳部位。
*5 短期記憶や反応制御、行動の切り替え、集中などに関連する脳部位。

呼吸は、記憶とも強く関連します。呼吸のリズムや深さといったパターンは、前頭前野や海馬の機能に影響を与え、結果として記憶の形成に影響します(Zelano et al., 2016; Heck et al., 2019)。さらに、呼吸に注意を向けることで記憶のパフォーマンスが向上することも示されています(Fujino et al., 2018)。

呼吸に注意を向ける瞑想やヨガ、マインドフルネスなどは、注意力や記憶力といった認知能力に影響を与えることから、ビジネスや学習、治療などの場面でも注目が集まっています。

呼吸と感情

呼吸は、感情調節と強く連動することが知られています。呼吸は喜びや悲しみ、怒りなどの感情の変化に対応して変化し、不安や怒りなどの負の感情状態では呼吸が浅く速くなることが一般的です。一方、呼吸のパターンを意識的に制御することで、感情を調節することが出来ます(Philippot et al., 2002; Homma & Masaoka, 2008)。

例えば、深くゆっくりとした呼吸を意識的に行うことは、快適やリラックス、活力などの感情を増加させ、不安や怒り、混乱などの感情を低下させます(Zaccaro et al., 2018)。これらの呼吸と感情の関連は、自律神経活動の調整や、呼吸リズムと嗅球-偏桃体の活動の同調などが関連すると考えられます。

また、呼吸とストレスに焦点を当てた研究も多く、深呼吸や腹式呼吸がストレスを低減することが報告されています(梅沢, 1991; 古賀ら, 2010; 松浦・山崎, 2021)。呼吸による介入は、ストレスホルモンであるコルチゾールレベルの低下が確認されており、これは交感神経の活動が抑制され副交感神経が優位になることが関連していると考えられます(Wehrwein et al., 2012; Perciavalle et al., 2017)。

まとめ

本記事でご紹介したポイントを以下にまとめます。

  • 呼吸において、(鼻から)息を吸うときに外界情報の知覚を鋭くし、息を吐くときに痛みの知覚を軽減する。

  • 呼吸への集中は、注意力を向上し、記憶のパフォーマンスを向上する。

  • 深くゆっくりとした呼吸は、不安や怒りの感情を低下させ、ストレスを低減する。

呼吸は単なるガス交換の機能を超えて、感覚や認知、感情と密接に関わる重要な身体活動です。瞑想やヨガなど古代から呼吸に着目した実践は行われてきましたが、現代の科学によって得られた知見から、さらに呼吸の重要性が認識されつつあります。

呼吸は多くの自律神経活動と異なり、意識的にコントロールできる点が特徴です。呼吸が持つ機能をうまく活用することで、感覚的・認知的なパフォーマンスの向上、感情やストレスの調節などの効果が得られるかもしれません。自分が普段どのような呼吸をしているのか、一度目を向けてみてはいかがでしょうか?

(執筆:菅原)

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参考文献

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