【基礎知識】徳倫理学の初歩
徳倫理(virtue ethics)は、アリストテレスを起源の1つとする倫理学で、アリストテレス倫理学ではユーダイモニア(善き生、人間の幸福、人間の生の開花flourishing)を徳倫理の核心的概念と考える人もいます(村松, 2017)。一方、心理的ウェルビーイングはユーダイモニアを心理学的に定義した概念です。すなわち徳倫理と心理的ウェルビーイングは祖を同じくしています。そのため、徳倫理学での議論は、ウェルビーイングに関係する可能性があります。(心理的ウェルビーイングについては、下記の記事をご覧ください)
そこで、今回は、徳倫理の初歩的な概要について、(難しいので)日本語の論文を参考にしながら見ていこうと思います。
徳倫理の位置付け
倫理学の分類
倫理学は、物事の道徳的な「正しさ」や「不正さ」を検討する学問で、道徳哲学とも呼ばれます。現代の倫理学は、下記の「メタ倫理学」「規範倫理学」「応用倫理学」の3つに大別されています(杉本)。
メタ倫理学…善とは何か?なぜ人は道徳的であるべきなのか?
規範倫理学…どのような判断や行為が善い(正しい)のか?
応用倫理学…実際の状況で何をすべきか?
例えば、万人に普遍的あるいは一般的な「善」や「正しさ」、あるいは「道徳」といった概念が存在し得るのか?といった検討をするのは「メタ倫理学」に相当します。これに対し、人が行った行為を「善い」「正しい」と評価する理論を検討するのが「規範倫理学」です。こうした理論を、医療現場やビジネス現場など様々な状況に適用し、どうする行為が正しいのかを検討するのが「応用倫理学」です。例えば、医療現場であれば、末期がん患者に告知することが「善い行為」と言えるのか?といった実践に対して検討します。
規範倫理学の分類
規範倫理学は、主に「帰結主義」「義務論」「徳倫理学」の3つの理論に分けられます。(これ以外にも、「社会契約説」「共同体主義」「ケア倫理学」「決疑論」などの理論も存在します。)「帰結主義」には、何をもって価値があるとみなすかによって様々な主張がありますが、最も有名なのは「功利主義(最大多数の最大幸福をもたらす行為が正しい)」でしょう。別の主張として「利己主義(自らの利益を最大化する行為が正しい)」も「帰結主義」に含まれます。しかしながら、「帰結主義」の代表例を「功利主義」とすれば、倫理学は次のように分類されます。
功利主義・義務論・徳倫理学の違い
では、「功利主義(帰結主義)」と「義務論」、「徳倫理学」の違いは何かと言うと、「正しさ」や「不正さ」を評価するために注目する対象の違いです。
「功利主義」は、「最大多数の最大幸福」を「善」とし、道徳的に正しい行為とは、その行為が帰結としてできるだけ多くの者をできるだけ幸福にすることである(杉本)、と考えます。そのために、行為を行う前に、その行為の功利(効用)を計算するべきだとしています(杉本)。ただし、功利主義では、最大多数の最大幸福という目的を達成できるなら、どんな手段をとろうと構わない(帰結主義)と考えます(杉本)。経済学を学んだ人であれば、経済学が功利主義に則っていることが分かるのではないでしょうか。
「義務論」は、義務を守る行為が正しく、義務に違反する行為が不正である(杉本)、という考え方です。ただし、道徳の義務は、「○○なら、○○すべし」という条件付き命令(仮言命法)ではなく、「○○すべし」という無条件命令(定言命法)で表現されます(杉本)。例えば、「幸せになりたいなら、結婚しなさい」は、条件付き命令なので義務ではありません。
また、意志のある人(正しい人)とは、定言命法で表現された格率(自分で決めた自分自身への「きまり」)に従う人のことです(杉本)。そして、定言命法は、無条件なので自分だけなく他人にも当てはまる普遍性を持つ必要があります。さらに、定言命法は、人間性を尊重し、人間性を手段として扱わないことも必要だと言います(杉本)。
例えば、「守るつもりのない約束」は、普遍化すると誰も約束を守らない世界になり、その世界では約束そのものが存在しません(杉本)。つまり、普遍化できません。また、「守るつもりのない約束」は、相手を私利私欲のために利用するため、相手の人間性を尊重できていません(杉本)。したがって、「守るつもりのない約束はしてはならない」が義務だということになります(杉本)。
「徳倫理学」は、功利主義と義務論が「行為」を評価するのに対して、「行為者(人)」に注目して評価する考え方で、有徳な人がその状況において行うであろう行為が正しい(杉本)、と考えます。ただし、これはアリストテレス主義的な「正しい行為」の考え方で、後述しますが、現代徳倫理学では、他の考え方もあります。
ここで、例を考えてみましょう。
知り合って間もない新しい友人が、あなたの誕生日にプレゼントを贈ってくれたとします。そして、あなたは、驚いて「知り合って間もないのに、どうして誕生日を祝ってくれるのか?」と聞いたとします。このとき、「功利主義」「義務論」「徳倫理学」では、その友人の答えが次のようになります。
(功利主義)「プレゼントを贈れば、あなたの幸福度が上がると計算できたから」
(義務論)「友人の誕生日にはプレゼントを贈ると決めているから」
(徳倫理学)「あなたが誕生日を迎えたことがめでたいと思ったから」
功利主義と義務論は正しい行為であれば行為者を問題にしないため、その人が善い人あるいは徳のある人かどうかは分かりません。これに対し、徳倫理学では、行為者の善や徳を問題にする点が異なります。
徳倫理学の歴史
徳倫理の創始者は、西洋ではプラトンやアリストテレスにまで遡り、東洋では孟子や孔子にまで遡ることができます(Hursthouse, Pettigrove, 2003)。
古代
古代ギリシアでは、善(もしくは価値)は、物事が真に存在する在り方に見出されました。善は自然に生起した人を惹きつける力を持つとみなされ、人の在り方も「真にその者である在り方(人としての善き生)」を目指すとされました。そして、徳の習得と徳に基づく活動を「人間本性の完成」と見なす徳中心的な考え方が支配的でした(土橋, 2022)。
アリストテレスの徳倫理では、善さとは人間の優れた在り方を目指すユーダイモニア(人間の幸福、人間の生の開花flourishing)であり、徳はユーダイモニアを実現するために必要な優れた性質のことでした(村松, 2017)。特に、「思慮(知恵)」「節制」「勇気」「正義」の四徳を「枢要徳」と呼び重視する点は、アリストテレス以外の諸学派でも一致していました(土橋, 2022)。
ただし、アリストテレスは「中」の調和観を持っており、絶対的な正しさを示そうとするならば、極端なものの「中」にあるもの、程の善さを意識する必要性を説きました(米森)。この「中」を選び取れる状態が「中庸」であり、徳は行為と反応の選び取り方として内在している性質のことでした(米森)。例えば、「勇気」という徳は、「蛮勇」と「臆病」の「中」を意味しています。
中世
中世に入ると、キリスト教と自然法思想によって、徳中心の考え方から行為・規則中心の考え方へ変わっていきます(土橋, 2022)。そもそも、キリスト教は、義務の道徳を説いていて、法に従った行為の観点から義務を理解しています(土橋, 2022)。有徳な者とは、法が明確であれば法に従い、法に裁量があれば許容範囲を逸脱しない者と考えられるようになりました(土橋, 2022)。すなわち、徳は法の下位に置かれるようになり、アリストテレスの四徳は、キリスト教的な徳(信仰、希望、相徳)のさらに下に置かれるようになりました(村松, 2017)。
ギリシア哲学のストア派に起源をもつ自然法思想(人為的ではない自然・社会・人間本性に由来する法があるという考え方)は、キリスト教と結びつき人格的立法者としての神による自然法へと変化して、人類の誰もが従うべき「絶対的義務」という考えに至ります(土橋, 2022)。絶対的義務には「侵害の禁止」「平等性の承認」「博愛」「合意」の4つがあり、この内「博愛」は、約束によって強制力を伴う「完全義務」と自発的な履行による「不完全義務」に二分されました(土橋, 2022)。この「不完全義務」は法で規定できないため、徳中心的な考え方が自然法思想の中に生き残りました(土橋, 2022)。
ヒュームは、このような超自然的な力に基づく自然法思想に異を唱え、完全義務と不完全義務を、人為的徳と自然的徳という人間の徳の働きの違いとして説きなおしました(土橋, 2022)。しかし、この試みは自然法思想を覆すには至らず、カントの法義務(外的な行為を為すように要求する義務)と徳義務(特定の格率を持つように要求する義務)の区別を待つことになります(土橋, 2022)。こうして、義務論が成立していきました。
近代
西欧の伝統の中で、徳倫理は古代から中世に至るまで倫理思想の中心的アプローチでしたが、19世紀に一度衰退しました(村松, 2017; Hursthouse, Pettigrove, 2003)。
フレーデによれば、近世ヨーロッパの政治混乱と宗教戦争が社会秩序の崩壊を招き、ユーダイモニア的な正しい社会秩序に想定できなくなり、共同社会に対する期待と信頼が崩壊し、徳倫理の凋落が決定づけられたと言います(村松, 2017)。言い換えると、社会秩序の崩壊によって、徳のある善き生が本当に幸福につながるのか疑念が持たれ始めたことが凋落の原因と言えそうです。
徳倫理の凋落は、善き生としての幸福を理解不可能にし、幸福を主観的な状態としてしか考えられなくなりました。徳は、幸福とは関係のない自己犠牲や禁欲といった形で理解されるようになりました。善き生は、物質的に満ち足りた生へと意味が変換されました(村松, 2017)。結果として、徳と善き生と幸福がそれぞれ関連しない概念へとなっていきました。
現代
衰退した徳倫理学が再び注目をあつめるようになったのは、アンスコムの「現代道徳哲学」(Anscombe, 1958)に端を発しています(Hursthouse, Pettigrove, 2003; 土橋, 2022) 。当時、支配的だった功利主義と義務論は「行為」にのみ注目していたため、人は「どのような人間であるべきか」「どのように生きるべきか」といった徳倫理の伝統的テーマに注意を払っていませんでした(Hursthouse, Pettigrove, 2003)。功利主義や義務論は、行為が正しければ、行為者が悪徳を動機としていても、善と評価します。アンスコムは、これを批判し、「行為がもつ動機や意図といった心的な概念との影響関係の解明がまずもって必要となる(土橋, 2022)」とし、これを「心理学の哲学」と呼びました。
この徳倫理の復興は、他の2つのアプローチに刺激を与え、支持者たちは自分が好む理論の観点から、これらのトピックを扱うようになりました。その結果、徳倫理が規範倫理学の第3のアプローチとして立場を確立していき、長い間無視されていたカントの「徳の教義」も再注目され、功利主義者は帰結主義的な徳理論を展開しました。また、プラトンやアリストテレス以外の哲学者の徳倫理的解釈が生み出され、それによって異なる形の徳倫理が発展しました(Hursthouse, Pettigrove, 2003)。
現代徳倫理学
こうして復興した現代の徳倫理学は、必ずしも新アリストテレス主義やユーダイモニズムの形態をとるわけではありませんが、現代版のほとんどすべてにおいて、古代ギリシア哲学に由来する以下の3つの概念が採用されています(Hursthouse, Pettigrove, 2003)。
アレテー(卓越性/美徳)… 性格の優れた特質
フロネーシス(思慮/実践的知恵)… いかなる状況でも正しいことを行える知識・理解
ユーダイモニア(幸福/人の生の開花)… 人間として善く生きること
一般的に、徳倫理は、正しい行為の規則の同定や道徳的義務よりも、「善く生きること」という理念と(知世、正義、勇気、節制のような)徳とに焦点を合わせた古代ギリシア哲学への何らかの回帰と理解されています。しかし、徳の本性、徳と他の道徳概念(幸福や正しい行為)との関連性、多様な徳の統一性、知性的徳の本性に関する問題等々の探求を通じて、第3の規範倫理学の地位を獲得すると共に、どの論に焦点を当てるかによって多様化していきました(土橋, 2022)。
徳倫理学的な正しい行為
特に、フレーデによれば、規範倫理学が主題とする「正しい行為」の徳倫理的な評価方法には、次の3つの見解があると言います(村松, 2017)。
「的確な行為者を立てる説明」は、アリストテレスの「有徳者であればその行為を選択するであろうという事実によって、行為は正しいものとなる」(相澤, 2017)という見解に立脚したものです。簡単に言うと「正しい行為=徳のある人が行う行為」という見解です。これは、裏を返すと、「正しい行為に共通する一つの特徴、一定の分かりやすい規則として明示できる行為の基準が存在することを認めない(村松, 2017)」という見解でもあります。なぜなら、状況や相手の性格など様々な事項を考慮して、思慮を働かせて、正しい行為を行う必要があるからです(村松, 2017)。この見解には、「正しい行為とは正しい人が行う行為」(村松, 2017)とも読み取れ、循環論証ではないかという批判があります。
「行為者に基礎を置く説明」は、簡単に言うと「正しい行為=善い動機に基づく行為or悪しき動機がない行為」という見解です。行為者の内面的性質(動機、性格特性)によって、「正しさ」を理解するため、「行為者に基礎を置く」と呼ばれています。そして、動機の正しさは道徳的評価によって行われ、道徳的評価は徳に規定されるとしています(相澤, 2017)。ユーダイモニアに貢献するかどうかで徳が規定される(つまり、ユーダイモニアを根源とする)新アリストテレス主義とは、徳を根源とする点が異なります(相澤, 2017)。また、2種類の定義があるのは、「完全な徳を満たした高潔な人はほとんどいない」という徳の程度の問題(Hursthouse, Pettigrove, 2003)によっていくつかの立場に分かれるためでしょう。例えば、高潔で完全な徳しか正しいと認めない立場や、不完全な徳でも正しいと認める立場、悪徳でなければ正しいと認める立場、等が考えられます。
「目標を中心とする説明」は、徳はそれぞれ関係する分野が異なるとし、その分野の項目に指定された方法で徳の目標を達成する行為が正しいとする考え方です(Hursthouse, Pettigrove, 2003)。例えば、「気前のよさ」は、他人が自分の行為を通じて享受する利益に注意を払い、他人が利益を得られることが目標となります。また、この考え方では、複数の徳で分野が相反することがあります。例えば、「決意」があれば粘り強く取り組むことができますが、「家族への愛」は時間と注意を別の方法で使うことができます(Hursthouse, Pettigrove, 2003)。このように、正しい行為を定義するには、徳の目標を定める必要があるため、「目標中心」と呼ばれています。この見解は、徳倫理に基づいた功利主義と言えるかもしれません。
例として、3つの見解を医療行為に適用すると、的確な行為者を立てる説明では「思いやりの徳のある医師が行う行為が正しい行為」となり、行為者に基礎を置く説明では「思いやりの徳を動機として接することが正しい行為」となり、目標を中心とする説明では「思いやりの徳が目指す目標である、思いやりをもって患者が扱われるとき(かつ、患者がそれを実感しているとき)が正しい行為」となります(村松, 2017)。
現代徳倫理学の分類
このようにして多様化している現代徳倫理学は、Hursthouseら(2003)や土橋(2022)を参考にすると、図5のように分類できます。ただし、他にもプラトン主義や道徳的個別主義などもあります。
ここで、「アリストテレス的徳倫理学」「行為者に定位した徳倫理学」「多元主義的な徳倫理学」は、図4の「正しい行為」についての3つの見解に対応しています。また、「自然主義」「幸福主義」「完成主義」は、独立した理論ではなく、自然主義の問題点を解決しようと試みが幸福主義、幸福主義の問題点を解決しようという試みが完成主義といった関係性にあります。
自然主義(neo-Aristotelian ethic naturalism)
自然主義は、徳は自然的な目的に照らしての卓越性として理解され、宗教的・形而上的・超自然的あるいは表出主義的に徳を定めることを拒絶する考え方です(佐藤, 2013)。人間をあくまで動植物の線上に位置する生物と見なし、その生の究極の目的として植物の繁栄・開花(flourishing)に喩えて、幸福を自然本性的な機能の十全な発揮と考えます(土橋, 2022)。簡単に言うと、人間の種としての自然的な本性を動機づけるような性格特性を徳とする考え方と言えるかもしれません。ハーストハウスは、生物的な本性(個体の生存、種の存続、苦痛からの解放、社会集団機能)に「合理性」を加えて人類種の本性と考えました。
幸福主義(eudaimonistic virtue ethics)
徳をユーダイモニアに貢献する(あるいは構成要素としての)性格特性と考え、徳を育み、徳に従った生活をおくることがユーダイモニアにつながるという伝統的な考え方です。つまり、徳はユーダイモニアの必要条件と考えます(佐藤, 2013)。幸福主義において、善き人生とはユーダイモンな人生であり、徳とは人間がユーダイモンでいられることを可能にするものです。そして、徳は、不運がない限り、持ち主に利益をもたらします(Hursthouse, Pettigrove, 2003)。ただし、徳があっても運に左右されるため、徳は善き人生の十分条件ではありません。
完成主義(perfectionism)
完成主義は、有徳に生きることは開花繁栄(flourishing)の必要十分条件であり、人は合理性の力によって自分を完成(perfection)に近づけることができる、と考えます(佐藤, 2013)。自然主義では自然は合理性の制約条件であり、幸福主義では環境や条件によって有徳に生きても開花繁栄(flourishing)に至るとは限りませんでした。完成主義は、これらを批判し、たとえつらい事情がある人であっても、有徳に生きた人間は開花繁栄した人間でありうるとしています(佐藤, 2013)。言い換えると、恵まれた環境の人だけが幸福になれるのではなく、恵まれない環境の人でも有徳に生きれば幸福になれる、と言えるでしょう。その意味で、公平かつ普遍的な考え方と言えるかもしれません。
行為者に定位した徳倫理学(agent-based virtue ethics)
行為者に定位した徳倫理学では、人を善くするのは、その人が正しい信念、価値観、態度、感情をもっており、それらによって動機づけられていることこそが重要だと考えます(土橋, 2022)。例えば、思いやり(憐み、慈悲、compassion)、配慮(気遣い、care)、親切(慈善、benevolence)によって動機づけられたことは、人を望ましいものにするとしています(土橋, 2022)。すなわち、徳をもっとも根源的な概念と位置づけ、徳によって行為者の動機や性格特性といった内面的性質を評価し、内面的性質によって行為の「正しさ」を導く理論です(相澤, 2017)。重要なのは、「正しさ」を定めるのは、行為そのものや行為の結果ではないという点です。これらの点で、義務論や帰結主義とは異なります。
多元主義的な徳倫理学(pluralistic virtue ethics)
多元主義的な徳倫理学は、目標中心的な徳倫理学とも呼ばれ、「正しい行為」の見解として「目標を中心とした説明」を用います。徳を完全に説明しようとすると、①徳の分野、②徳の対応モード、③徳の道徳的承認基盤(分野の特徴)、④徳の目標が必要になり(Hursthouse, Pettigrove, 2003)、徳の分野の多元性から多元主義とも呼ばれます。例えば、「勇気」という徳は「脅威の分野」に属し、脅威を生み出す恐れ(承認基盤)に反応し、価値や絆を守る(対応モード)ことで、恐怖をコントロールあるいは危険に対処(目標)することを目指します(Hursthouse, Pettigrove, 2003)。ただし、目標に対して、最善の行為を正しいとするか、十分な行為を正しいとするか、悪くない行為を正しいとするかで、主張が分かれています。
まとめ
倫理学は素人でしたので今回は初歩的な内容になってしまいましたが、倫理学における徳倫理学の位置づけ、徳倫理の歴史、現代徳倫理学の多様性について概観してみました。何をもって「善い」とか「正しい」とするのかは難しい問題ですね。
例えば、「偽善」は「行為の結果は正しいけど、その心は正しくない」と感じられる場合に使われる言葉だと思いますが、これは「功利主義的には正しいが、徳倫理的に正しくない」と言うことができそうです。また、「規則だから」と断られてモヤモヤするのは、「義務論的には正しいのは分かるが、功利主義的には正しくない」と感じているのではないでしょうか。あるいは、「心がこもっていない」という批判は、「義務論的・功利主義的には正しいが、徳理論的には善とは言えない」と解釈できるのかもしれません。反対に、「嘘も方便」と言われるように、思いやりから嘘をつく行為は、「(思いやりの徳が動機なので)徳倫理的には正しいが、(動機を問わない)義務論的には正しくない」ということなのかもしれません。
規範倫理学は、徳倫理学という第3のアプローチを得て、理論統一を目指しているようです。もし、それができれば、これらのモヤモヤも解消するかもしれませんね。
一方、私たちのウェルビーイング経営デザイン研究では、経営の根底に「善い心」が必要ではないかと仮定しています。もしかすると、これは「徳」のことなのかもしれません。
執筆:山本
参考文献
村松聡. (2017). 徳倫理の現在-その位置づけと現状 (Doctoral dissertation, Waseda University).
Anscombe, G. E. M. (1958). Modern moral philosophy. Philosophy, 33(124), 1-19.
佐藤岳詩. (2013). < 研究報告> 徳倫理学の最前線 (1): 現代徳倫理学における自然主義と徳の規準. 実践哲学研究, 36, 153-179.
相澤康隆. (2017). 道徳と動機-マイケル・スロートの行為者基底的徳倫理学. 人文論叢: 三重大学人文学部文化学科研究紀要, 34, 1-10.