【世界の感謝】19世紀の英国と感謝−感謝する奴隷の逸話
感謝が人種差別になるという話が意外すぎたので、文献(Burroughs, 2020)の内容を要約してみました。
エヨの物語
1893年、船舶会社の取締役アルフレッド・ジョーンズは、英国の占領地ニジェールに住むエヨ・エクペニヨン・エヨ2世(13)から、「奴隷にされそうなので、償還してほしい」という懇願の手紙をもらいました。ジョーンズは、元宣教師のウィリアム・ヒューズが設立した教育訓練学校「コンゴハウス」にエヨを招きました。
コンゴハウスは、アフリカ人宣教師を英国で育て、アフリカに宣教師として戻ることを期待する教育慈善団体でした。英国人宣教師をアフリカに送っても、気候の違いなどで体調を崩してしまい、費用が掛かりすぎるため、逆転の発想でコンゴハウスは設立されました。
しかし、英国に招かれたエヨは、半年も経たないうちに、「英国の寒さで具合が悪く、耐えられないため、暖かいアフリカに帰りたい」と申し出ました。
この小さな物語が、19世紀の英国では人種差別的に喧伝され、感謝は人種差別の道具になってしまいました。
18世紀の英国
18世紀の英国では、まだ奴隷制度が残っており、これの擁護者が多く存在していました。奴隷制の擁護論の中で唱えられた説に「感謝する奴隷」という図式があったそうです。
これは、「白人を前提とした英国人は奴隷にされることを嫌がるが、有色のアフリカ人は奴隷にされたことを感謝するため、本質的に人種が異なり、本質に沿った奴隷制は何ら悪いものではない」という言説です。
さらにこれが転じて、「奴隷は、奴隷にされたことを感謝しなければならない」という言説になり、奴隷だったメアリー・プリンス女史が元所有者のジョン・ウッドに自由を望んだ時、ウッドは「最悪の恩知らず」と彼女を非難しました。
このようにして、感謝の気持ちは、奴隷制の正当性を説明する理由にされていました。
19世紀の英国
19世紀半ばの英国では、奴隷解放の賛成派と反対派に分かれて論争が起きていました。
反対派の論客たちは、アフリカ系の人々は博愛的でも友愛的でもないため解放しない方がよい、解放奴隷と仕事が奪われる中産階級が平等なはずはない、解放したとしても自由を理解できず再度奴隷にされたことを感謝する、といった論説を展開しました。
実際、チャーチルの「自由の国」という詩は、奴隷でありながら英国を冒険したモハブが、イギリスの脱走兵の扱い、腐敗した報道機関、貧しい家、飢えた大衆を見せられ、「偉大なる神よ、私の父祖たちよ、私が奴隷の地域の子であることを!」と奴隷であることに感謝して終わるそうです。
このように、「感謝する奴隷」の概念は、奴隷制度廃止後も根強く文化として残っていました。
マスコミのバッシング
19世紀末の英国で起きた「エヨの物語」は、当初、穏やかで支援的な報道がされていました。
しかし、デイリー・テレグラフ紙が取り上げると、「甘やかされたアフリカの子供のエヨは、ウェールズの冬を嫌がり、不屈の精神に欠け、せっかく与えられた機会を不本意に拒絶した」と人種差別的な攻撃が始まってしまいました。
別の新聞では「皮肉な祝辞」という形で憤慨を示し、また別の新聞では「エヨの情けない訴えを祝って(皮肉)」います。他の報道も皮肉に満ちたものでした。
これらは、「アフリカ人であるエヨは、保護した英国に感謝すべきなのに、帰国したいとは何事だ!」という「感謝する奴隷」レトリックによる怒りに基づいていると言えます。
このようにして、18世紀~19世紀のヴィクトリア王朝時代の英国では、感謝は人種差別的な意味を持っていました。
まとめ
この話から得られる示唆は、支配関係に基づいた「感謝をして当然である」という考えは、歪んだ文化をもたらしてしまうということでしょう。例えば、上司が「部下が自分に感謝しないのはおかしい」などと言い出したら、危険な兆候だと考えた方が良さそうです。
現代の感謝には、「感謝する=従属的である」という意味はありません。感謝感情は、親切にされると自然に発生するものと考えられ、「感謝しなければならない」と要求されるものでもありません。
筆者:山本